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『桃太郎の正義』

 

 子供の頃、日曜の朝にやっている戦隊ものが好きだった。今思えば毎回毎回殆ど変化のないストーリーなのだが、勧善懲悪という物語の王道ともいうべきポイントをしっかり抑えており、ヒーローの格好良さに心躍らせたものである。この頃の私は「正義が勝つ」という事を信じて疑わなかった。しかし少し大人になって世の中を見渡してみれば、「正義が勝つ」という言葉が正しいとは限らないという事に気付いた。世の中は不公平で不平等で、理不尽だ。実のところ、「正義が勝つ」のではなく「勝った方が正義」なのである。「勧善懲悪」のスカッとする物語はすべて、強者或は勝者の弁である事を忘れてはならない。私たちは物事の善悪を、勝者としてでも敗者としてでもなく、一人の人間として見極めていかなければならないのではないだろうか。

 日本で最も有名な勧善懲悪物語と言えば『桃太郎』だろう。『桃太郎』は桃から生まれた桃太郎がおじいさんとおばあさんに育てられて成長し、犬雉猿をお供に村を襲った鬼を退治する物語である。悪として存在する『鬼』に正義として存在する『桃太郎』が戦いを挑み、そして正義側の桃太郎が勝利するというのは見事な勧善懲悪である。

 しかし、鬼から見れば桃太郎はどう映るのだろうか。鬼からしてみれば桃太郎が正義でもヒーローでもない事は確かだ。ある日やってきた「桃太郎」という人間が自分たちの一族を皆殺しにし、大切にしていた宝物をすべて奪っていってしまったのである。最初に宝物を奪っていったのは鬼だから仕方ないという反論も在るだろうが、現実世界では盗まれたものを盗み返すと犯罪になる。コンビニの入り口に置いていた傘を盗まれたからといって他の傘を勝手に使うと犯罪になるし、盗まれた自転車を他の場所でたまたま見つけてこっそり持ち去るのも犯罪なのだ。何故、所謂「やられたらやり返せ」を禁止しているのかと問われれば、そうする事で争いが一層激化していくからである。戦争が、このいい例かもしれない。欧州諸国の博物館に展示されている展示物の内、幾らかは曾て列強と呼ばれた彼らが自ら起こした政略戦争の戦利品、つまり負けた国々から一方的に奪っていった宝である。そして今、このようにして曾て列強が一方的に搾取していった多様な資源の権利を巡って争いが起きている。

 だが、我が物顔で「正義」を語る勝者が悪いと一方的に決めつける事は出来ない。正義というのは何処にでもあるし、そして悪というのも何処にでもある。誰かを護る為に戦うのだと言えば聞こえはいいが、相手からしたらそれは勝手な都合だ。では逆に何もしなければいいのかと言えばそうではない。何かをしなければならないときというのは誰にでも訪れ、そしてそれが万人にとって「正義」である事はとても少ない。私たちの生活の中でも、こういった事は当然起こる。私の場合よくあるのは友人間での会話での立ち回り方だ。友人といっても付き合いの浅い方や友達の友達ともなると一筋縄でいかないのが常である。一方の友達と仲良くすると他意はなくても恨まれたり妬まれたりすることがあった。勿論逆も然りで、勝手に恋のキューピット気取りのことをされるとその子に悪意はなくてもちょっといい気がしなかった。

 結局のところ、桃太郎も鬼も正義でもないし悪でない。彼らは我々と同じように正義であって悪なのである。我々は自身の善悪判断の答えを第三者的視点によって用意しなければならない。私には桃太郎のした事が悪い事だともいい事だとも言い切れない。しかし私は、彼が自身を育ててくれた村の為に戦った事を知っているし、その一方で鬼達を皆殺しにしたのを知っている。私は桃太郎に護られた村の民でもなく、桃太郎に滅ぼされた鬼の一味でもなく、只一人の人間として、彼が正義のヒーローであり悪者でありそして人であるのだと、『桃太郎』を読んで、そう思った。